takorin-908’s diary

男子大学生の頭の中を具体的に文面化しています。知識から哲学、考え方などジャンルはいろいろです。皆さんの貴重な時間を有意義なものにするため役立つ内容を書くことを心がけています。

間違ってね?そのアウトプット法

 

 

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大学生になって様々な人と絡んできた。
パリピの人、スポーツバリバリ系の人、おとなしい人などなど、、、
 
 
 
私が特によく関わっていたのは志の高い学生
いわゆる「意識高い系大学生」
 
 
 
学生という身分ながら様々な企業の方々と共に某プロジェクトに参加したり
規模の大きな学生団体に参加して自案のプログラムを開始したりなど
意識高い系の人はだいたいこのような活動を行っている人たちのことを指す。(うん)
 
 
今回は、このような意識の高い大学生だからこそ陥りやすい
アウトプットの間違った方法があるという事実を指摘したい。
 
 
 
 
 
 
 
その間違っているアウトプット方法の例としてこの文章見てもらいたい。
 
 
 
「次で例の件フィックスするから、ミーティングアレンジしといて。あ、アジェンダ先にシェアしといてね」
 
「例のプロジェクト、彼のタスクが多すぎてボトルネックになってるんだよね。サポートの人員アサイしないと」(某サイトから引用)
 
 
 
 
 
 
非常にわかりにくい
 
大体こういう意味だろうなという察しはつくものの、非常に理解しにくい。
 
 
 
 
 
 
私が指摘している意識高い系の間違ったアウトプット方法とは
そうかっこいいと思われがちなカタカナ語である。
 
 
 
確かに、自分の理念や考えをカタカナ語を使うことによって伝える文章だったり、
言葉に一種の意識高いオーラが育まれ
使い手は意識高いオーラのベールに包まれることが可能である。
 
 
 
 
しかしだ、カタカナ語を多発することで理解できない人がたくさん生まれてしまえばそれこそ問題である。
 
 
 
大学生になって様々な方面の人と絡んできたが、
まずこのカタカナ用語を十分に理解している人は少ない。
それは多分意識高い系の諸君も十分承知のはずだ。
 
 
 
しかし彼らはあえてそれを使う。
なぜか。シンプルにかっこいいし、そうすることによって関節的に自分はみんなの知らぬ語彙力もあってすごいんだぜと言うことを表明できるからだ。
カタカナ用語つかってるぜおれ?かっこいいだろう?まるで昔流行った杉ちゃんのように振舞っているのである。
 
 
 
おれカタカナ用語使えるんだぜ、すごいだろ、というのを大衆に知らしめ、自分はてめーら意識低い系とは違うんだあっかんべーという気持ちが彼らのアウトプットからひしひしと伝わってくる。
 
 
 
 
こんなことを書いていると意識高い人が自分のSNSに私の文章のURLを添付し、こいつの言っていることは頭の悪い学生の戯言にすぎないと取り上げられそうだが、私は完全にカタカナ語をなくせと言っているわけではない。

 

 

確かにカタカナ語を使うほうが会話がスムーズに進むような話題もある。
お互い意識が高く、カタカナ語に対する知識や語彙力が豊富なのであれば、その間で使えば問題はない。
それはまるで自分達の国の言語のようになり、意思疎通がさらに流暢に感じられて、団結感もますことだろう。
 
 
他には経済などの専門分野に関すること。
経済用語には様々略語、カタカナ語が存在するのでそれを経済学を学んだ方々の間で使う分には問題はない。
 
 
 
 
しかし一般の方々(彼ら一体どのような人かわからない)に自社の理念、自分の考えやプランを説明する時にカタカナ用語を連発し自分の地位をあげようものなら、他の人を思いやっていないただの自分の言語を押し付ける自慢野郎になりかねない。
 
 
 
 
難しいカタカナ語を使うことで他の人に学歴や意識の高さのレベルの違いを認識させることばかりに気をとらわれていては多くの人に自分の理念を伝えることはできない。
人々に伝わりやすく伝えることが最も大切だ。